嘘のつくりかた
10.絡まない延長線上の今
「おはよ」なんら変わりない様子に私もつられて挨拶を返す。そうしてから、あれ?と疑問が浮かんだ。
新倉はまるで何事もなかったかのように鼻歌交じりに鞄の中から手帳を出し机の上に置いている。
……この数日の間にいろんなことが起こりすぎた。そのせいでこいつへの応対の仕方を忘れていた。
と、意識しだしたら“もう風邪は平気なの”とか“元気そうだね”とか次に掛ける言葉は見つかるのに声にならない。
途端に手元もおぼつかなくなった。
「あーあー何やってんのアナタ。ほら、ボーッとしてないで早く拾って」
憎まれ口を叩きながらも散らばったペンケースの中身を拾ってくれる。私はそれをただ眺めていた。
「俺がほとんど拾ってんじゃん。はい」
新倉は拾ったものをまとめて私の手に置いた。シャープペンやボールペンを含む様々な文房具10種類ほど。
欲を言えば、手の上でなくペンケースに入れて渡して欲しいところだ。親切なのか意地悪なのかわからない。
相変わらずの平常運転の新倉に我に返り、文房具たちを机に置いた。それから寂しくコロンと転がったままのペンケースを拾い上げたところで妙な音が聞こえた。
音のした方を向くと新倉が両手を上げて大きく伸びをしているだけ。
「今の音何?」
やっと出した声は少しかすれた。
「聞こえた? 俺、関節曲げたり伸ばしたりするとポキポキ音が鳴るのよねー」
彼が首を回すだけでまた音が鳴る。
「カルシウム足りてないんじゃない? 短気だし」
「怒りっぽいのはアナタでしょ。俺は日々マイペースに過ごしてますもん」
ほら、と新倉が仏頂面の私を指差した。
私が更に頬を膨らませてクルッと椅子を回転させ席に向けると隣からクククッと笑い声が聞こえてきた。
その日の昼休みは珍しく社員食堂で新倉を見掛けた。
「どしたの」
「今日はミョーにここのアジフライ定食が食べたくなったんですよ」
それほど食べたそうな素振りを感じさせないまま、新倉は食券を買いに行った。
しばらくして新倉はトレイを片手に戻ってきて当然のように私の横に座った。無言で新倉に視線を送る。
「だって他にいい席空いてないんだもの」
新倉がパキンと割り箸を割った。
周囲に目をやるとちらほら席は空いている。
既に食べ始めた新倉に席を移れというのは酷な気がして、開きかけた口を閉じた。
「佐伯さん珍しいですね。ここでお昼ですか?」
「うん。今日はお揃いで仲良いね」
和やかに会話を交わす佐伯さんと涼のやりとりを少し離れて眺めながらかき揚げをかじった。
「にい、もう風邪はいいの?」
「おかげさまで」
「俺もお昼買ってくるからさ、相席いい?」
「どうぞ」
ただ黙々とアジフライにかじりつく新倉の代わりに涼が空いている椅子を引いて相席了承の返事をした。
「涼、私先に戻るね」
「食べ物残すなんて作ってくれた人に悪いでしょ」
新倉はこういう時ばかり口を開く。あんたは私のお母さんか。
立ち上がりかけた腰をもう一度ストンと降ろし、渋々残りのうどんを口にする。
「青ちゃん、今日は暇そーね」
食べ終えた新倉が佐伯さんに声を掛けた。その声は心なしかカドがあるように思えた。
「丸一日掛かると思ってた仕事が午前中で終わってさ。こないだ成瀬に頼んだ資料のお陰」
ニッコリと佐伯さんが私に笑顔を向ける。
「お役に立てて何よりです……」
返す笑顔が思わず引きつった。
「じゃあその空いた時間で次の企画書でも作ればいんじゃないですか? 営業部のエースさん」
「午後から新規のお客様のところに挨拶回り行くんだ。成瀬も一緒に行く?」
「いや、あの……」
返事に迷っていると頼んでもいないのに代わりに新倉が返事をした。
「明日までの仕事あるみたいよ。暇じゃないのよ、こいつだって」
やっぱり二人の間に漂う空気がいつもと違う。涼が私の耳元で囁いた。
「何があったの? この二人。怖い」
その意見には私も同意したい。
新倉のあからさまにトゲのある態度に対して極上の笑顔で返事をする佐伯さんの目は全然笑っておらず、恐怖さえ感じる。
もう食べ終わっているのに立てずにいる私に誰か勇気をください。
「じゃ、俺はそろそろ行ってきます。高梨さん、急で申し訳ないけどこないだ頼んどいたやつできてる?」
「あ、はい、出来てます。何部必要ですか?」
「10部お願い」
空気を変えたのは佐伯さんだった。
急に用を言いつけられた涼は戸惑いながらも駆け足でオフィスに戻っていった。
それを見届けてから佐伯さんが新倉の方を向く。そしてじっと睨むような目付きで見つめて言った。
「あんまり俺のかわいい後輩をいじめないでね、にい」
そう言い放つと佐伯さんもオフィスへ戻っていった。その背中へ新倉が小さく舌打ちした。
新倉と私。急に二人にされても何も話すことがない。このまま戻ろうと席を立った。
「成瀬サン」
急に呼び掛けられ変な声が出た。
「今日は残業になりそーなの?」
「え? いや、ある程度の目処は立ったから大丈夫です……」
妙な威圧感にのまれてつい敬語で答えてしまった。
そ、とそれだけ言いおいて新倉がさっさと席を立ち、一番先に抜け出したかったはずの私が残った。
それから特に何事も無く一日は終わってくれた。
会社を出て少し歩くと、新倉が柱に寄りかかって携帯を見ていた。先に帰ったと安心していたのにたちまち緊張の糸が張り詰める。
このまま声も掛けずに目の前を通り過ぎれば気付かないのでは。足早に、でも音は立てないように。新倉の前を通り過ぎることに成功したのも束の間。少し遅れて新倉も歩き始めて、私はため息をついた。
歩き始めて10分。駅で終わると思っていた緊張は電車の中まで続いた。確か、新倉は反対側の電車のはずだ。
このまま無言が続くのも自分の気が滅入ってくる為、他愛のない話を何度か振った。
けれども“うん”とか“さぁ”という生返事しか返ってこない一方通行の会話にしかならなかった。
「言いたいことがあったんじゃないの」
やっと自分から新倉が発した言葉はそれだった。
その言葉以降、またしても沈黙が続く。私は仕方なくそれに答えた。
「……友達と恋人の境界線てどこ」
言いたいこと、聞きたいことはいろいろあったけれど考えた挙句これに落ち着いた。
「友達は友達、恋人は恋人、でしょ」
電車はトンネルに入り、窓は鏡代わりになった。
窓に映った新倉の顔は暗くてよく見えない。
「何、アナタ今まで付き合ったことないの」
「あるけど!……わかんなくなったから」
「そんなのわかんなくて当たり前なの。俺だってわかんないんだから」
新倉がホームに降りた。
何それ。世界はあんた中心に回っていないでしょ。
「好きになったとこが境界線でしょ、多分。そっからはもう友達なんてやってらんねーよ」
電車の外を流れていく景色の中に新倉の照れたような怒っているような横顔が見えた。
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