Kissからはじまる。
Before drowned to your eyes



 ため息が出る。
 和泉と話さなくなってから、どころか、まともに顔を合わせなくなってからの日数は片手じゃ足りなくなりかけていた。その間ひたすら逃げて、ごまかして、かわして、どうにかこうにかすごしている。
 嫌いになったわけでは、ない。どころか、こっちの意志も聞かずにあんな思い出すのも恥ずかしいような、その、ちゅう、とかされたにもかかわらず、あたしは和泉を嫌えずにいた。
 あのときとっさに逃げ出した頭の中でぐるぐる回っていたのは、ふざけんな何しやがるあの男、ではなく。
 なに考えてんだなに考えてんだ他に……いや先になんか言うことないのか、なんてゆー、自分でもアタマ悪いなあたし、と思えるようなことだった。
 先になんかって、何を言って欲しかったって。
 そんなの、解らない。
「ばーかばーか」
 呟いて頭を振った。気が緩むとどうしたって思い出してしまう。眠たい授業中だとか、独りの帰り道だとか、果ては慌しい委員会の最中にまで。
 柔らかくて心地よいトーンの声。穏やかなくせにあの瞬間だけは違って見えた、ガラス越しの眼。優しい手のひらは大きくて、力の強さで性別の違いを思い知った。なのにどうしてか、薄闇の中であたしを見下ろしていた口元は泣きそうに歪んでいて。
「泣きたいのはあたしのほーだっちゅうのぉぉぉ!」
 叫んでから我に返った。慌てて見回した周囲に人影はない。あっぶないやっばちょー焦った。
 和泉のせいだ。
 近道の路地裏を通ってたどり着いた駅は、いつも通りにそこそこ人がいた。可愛い制服で人気の高校生。背広のサラリーマン。買い物帰りのおばさん。同じ学校の学生服。すらりと背の高い後姿をしている。やせているのに華奢には見えない背中と、半袖から伸びた腕が綺麗だ。足がずいぶん長い。色素の薄いサラサラの髪。
 何気なく見慣れた制服を目で追いかけ、はたと気づく。和泉だった。
電車待ちをする横顔から逃げるように階段を駆け上がる。あたしが乗る電車はホームの反対側から出る。和泉の家とは方向が逆だから。
なんでこんなことになったのだろう。向かいのホームにいる和泉からなるべく見えないような位置で顔を背け、ぼんやりと考えた。この間まで、あんなに居心地がよかったのに。それともそう思っていたのはあたしだけなんだろうか。和泉はなんであんなことしたんだろう。なんで何も言わないんだろう。嫌われてたんだろうか。もしかして。嫌がらせならいっそあたしも嫌えるようなことしてくれたらよかったのに。
てゆーか。
 なんであたし、嫌いだと思えないんだろう。


 地元の駅で電車を降りた。所要時間、十分弱。電車通学と言うには短くて、ときどき頑張って自転車で行こうかなとか、思わなくもない。
 あたしが乗ったのは改札から一番遠い車両だった。改札は上りホームにしかないから階段まで行って上って下って、面倒くさい。苛々しながら階段を踏みしめた。ああもう、何もかも和泉のせいだ。
 そう悪態をつこうとした口が止まる。改札の手前、ホームにぽつんとついた街灯の下に誰かが立っていた。いや、誰かが、なんて回りくどい表現はいらない。
「和泉」
 正直、迷った。シカトしてしまおうか。それともいっそ問い詰めてしまおうか。お前がキライだからあんなことをしたんだとでも言われれば、あたしのこのモヤモヤもすっきりするかもしれない。
 迷ったまま、距離が近づく。はっきりと顔は見えないけど、和泉は解っているに違いない。て言うか。
 て言うか、なんで和泉がここに?
 疑問に気づくのが遅かった。結論を出す前に声がかかる。
「美里。待って」
 避け続けた姿。聞かないようにしてた声。どうしよう。深呼吸をひとつ。心臓の音がうるさい。あたしはどうしたいんだろう、どうしたらいい、ねぇ……。
「……なに」
 結局、和泉の前で足を止めていた。
 ゆっくりと顔を上げる。視線の先で和泉の目があたしを見つめていて、目まで茶色いんだ、とか暗いはずなのにあたしは考えていて。
 やがてすっかり見慣れた、でもいくら見ても飽きない綺麗な顔が、ふわんと甘ったるい笑みを浮かべた。
「やっと見てくれた。俺のこと」
 なぜだろう。その瞬間、ああ捕まった、なんてことを頭の隅で思い浮かべた。
「ごめん」
「なにが」
「……突然あんなことして。嫌だったろ」
 そうだともそうじゃないとも、答えない。答えてしまったら久しぶりの会話が終わりになる気がして、それよりも和泉の言葉が聞きたかった。
「そういうつもりで呼び出したんじゃないんだ。その……」
 言いよどんで目が泳ぐ。不謹慎なのは解ってるけど、ゴメン和泉、面白い。
 ノドまで出かかった言葉を飲み込んだ。たった一言でいつもの調子を取り戻している場合ではない。
「とにかく、ごめん」
 しばらく視線をさ迷わせたあげく、和泉はそう言って頭を下げた。口下手なわけじゃないのにね。
 黙ったままのあたしに、和泉は頭を上げると不安そうに瞬きをした。でも同じくらい、この数日間あたしも不安だったし、和泉が何を考えているのか知りたかったし、どうしていいのか解らなかったし恥ずかしかったし。
 だからゴメンなんて一言で終わりになんかできない。
「それだけ?」
「え?」
「言うコト、もうないの?」
 呟くと同時に風が吹きぬける。あおられて舞った髪の向こうで、和泉が目を細めるのが見えた。両手で髪を押さえ、もう一言だけ。
「今なら聞いてあげてもいいけど」
 一瞬だけひどく驚いたような顔をした和泉は、小さく笑って頷いた。
「そう。じゃあ」
「なによ」
 そろり、遠慮がちに伸びてきた手のひらが頬をなでる。言葉とともに梳かれた髪が、風に流されて空気に揺れた。
「好きだよ」
 その、甘い声が告げた意味を理解したとき。あたしは自分が何も考えていなかったことを思い知った。今なら言ってもいいだなんて。こんなことを言われると少しでも気づいていたら言わなかったのに。
 ついでに自分が和泉から逃げ続けていた理由も。顔を見ることや話すことや、もう和泉に関わる何もかもを避けまくっていた理由が嫌というほど解ってしまって。
 絶句したあたしに、和泉が少しだけ笑いかける。嬉しそうにも悲しそうにも見えた。ああホントに、こいつは何を考えているのか解りにくい。
 固まった空気を叩き壊し、不意にアナウンスが響き渡った。ホームに電車が参ります、お下がりください云々。上り電車。和泉が乗る、電車。遠くから聞き慣れた音が響いてくる。
 なのに目が逸らせなかった。
「また明日」
 ホームに電車が滑り込んでくる。窓越しの明かりが切れ切れに和泉の顔を照らした。いつの間にか手のひらは離れ、表情もいつもと変わらない優等生の笑顔になっている。見つめていた唇が動いて、静かな音が落ちてきた。
「学校で」
 ぽん、と一度だけ頭に手を乗せ、振り返ることもなく和泉は電車に乗り込んだ。ドアが閉まり、走り出す音。
 それが遠くなってようやく、あたしは体の向きを変えた。さっきまで電車がいたところには、もう暗い線路が横たわるだけ。
 一気に力が抜けてワケが解らなくなって、知らずホームに座り込んでいた。ああまただ。声がよみがえる。海岸で。そう告げられたあの日と同じ、また何度もリピートしてしまうに違いない。でも今度はリミットがあって。
 また、明日。
 そして、明日は体育祭だ。


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