嘘のつくりかた
番外編 3秒後に世界が終わるなら
3.ささやかなテリトリー
クククと抑えたように喉の奥で笑う。それはにいが本当に楽しんでいる時だけの笑い方。
成瀬もにいもたぶん、気付いてない。
口を開けて笑っているわけではないのに廊下まで二人の声が響いてくる。
「成瀬」
彼女を呼ぶともれなくついてくる隣の席の視線。
成瀬は背後の空気など気付かず俺の側に寄ってくる。
「これからK製薬に行くんだけど午後から大丈夫?」
「今は仕事落ち着いてるんで大丈夫です」
即答だったから本当らしい。
「松本さんが成瀬連れて来いってうるさ……いやご希望で」
様子を想像したのか、成瀬が笑う。
「どこが気に入られているんでしょう?」
「気の強いところじゃない?」
成瀬がすぐに不満そうな表情を浮かべる。
「強いのは佐伯さんの方ですよ」
「その俺についてこれるってことは更に上をいってると思うけど?」
どんどん仏頂面になっていく彼女がかわいくてついからかってしまう。
「あのさ、ここ俺の通り道なの。喋るなら別のとこでやってくんないかな?」
仏頂面の人間がもう一人。
「あっちの方が通りやすいと思うよ、にい」
机を挟んで向こう側の通路を指差す。両側に机が並んでいるこちらより広い。
「俺はこっちの道がいいの。ほらどいてどいて」
ただでさえ狭い通路に立っている俺たちの間を割って入ってくるものだから、俺と成瀬は両端に避けるしかなかった。
「あっち通ればいいのに……」
成瀬がぶつぶつ文句を言っている。
「午後から成瀬と出かけるから後のことはよろしくね、にい」
遠くの方で苦い表情のまま手を上げたにいが見えた。
このままの関係が続けばいい。そう思っていたのに。
「成瀬?」
雨の中で見つけた彼女。
彼女の顔に涙の筋が見える。
雨が顔に当たってできたようにも見えるけど、目元に溜まった水分は雨じゃない。
「なるせ、」
「それ、サイズ合ってないですよ佐伯さん。肩濡れちゃってるじゃないですか」
言葉を遮って俺の気遣いをする。それが痛々しくて余計辛い。
何かがあったことだけはわかる。
先輩として仕事のことなら力になれる自信はあった。でももし、それ以外のことなら。
抵抗する彼女をなだめながら会社へ戻ってきた。
新しいタオルと淹れたてのコーヒーを渡すといくらか体の緊張が解《ほど》けたようだった。
それから俺に促されるまま来客用のソファに座った。
黙ったままコーヒーを飲む成瀬を見ているとどうしても問い詰めたくなる。
だからといって警戒されては元も子もない。
ゆっくり慎重に聞いた。
「言いたくないならいいんだけどさ、さっき泣いてたよね? 何かあった?」
一度だけ頷いた後に“にい?”と聞くともう一度頷いた。
「そっかぁ……」
あらかじめ予想してはいても本人から肯定されるとやっぱりショックだった。
泣くほどのことがあった、というよりは“にいのとった行動で泣いた”のだと察する。
そのことにまだ気付いていない彼女に向かってにいの株を落とすことは簡単なことだった。それなのに彼女に聞かれたことに素直に答えてしまったのは何故だろう。
俺とにいの学生時代の話を聞いて複雑そうな顔をする成瀬。
見ていられなくなって時計に視線を移す。時刻は20時を過ぎたところ。
「そろそろ帰ろうか」
「佐伯さん用事があって社に戻ってきたんじゃないですか?」
「なんだっけ、忘れた」
本当の理由を知ってか知らずか成瀬がクスクス笑った。
雨が降った後の空気は湿気を含んでいるが少しひんやりして肌寒かった。
まだ少し足元のおぼつかない様子の成瀬。危なっかしくて見ていると思った通り階段から足を踏み外した。
「成瀬そこ!」
言うが早いか成瀬の腕を引き寄せる。
抱きとめた拍子にふわっと彼女の香りをまとった風が吹いた。
「あっぶねー……お願いだから前見て歩いて」
手を離すとまた落ちていくんじゃないかと彼女を抱きしめる腕に思わず力が入る。
「びっ、くりした……」
「びっくりしたのはこっちだから。大丈夫? 怪我してない?」
身長の低い成瀬は俺の肩にも満たない。彼女がしゃべると胸に声が直接響いた。
「大丈夫です……すみません」
本人からの直接の無事が確認できるともう一度だけ成瀬をぎゅっと抱きしめる。
彼女と俺自身を落ち着かせるようにゆっくり背中をトントンと叩いてから体を離した。
「これからは愚痴の相手の一人に俺も入れといてよ」
その言葉は落ち着かない気分に余計拍車をかけた。
成瀬が泣いた原因はすぐ聞くことになる。
気分転換にでもなればと誘った居酒屋。
本当はもっと雰囲気のあるところに連れて行きたいところだけど警戒されても困るから。
仕事の愚痴を聞いたり聞いてもらいながら場が落ち着いてきた頃。本日一番聞きたいことを尋ねる。
「なんで昨日泣いてたか聞いても良い?」
まっすぐ俺を見つめた成瀬の目が抗議している。でもすぐに目を伏せてゆっくりと話し始めた。
酒の力もあって聞きながら今すぐにでも殴りに行きたい衝動に狩られたが、まだ残っていた理性でなんとか抑える。
「成瀬はどう思ってるのにいのこと」
成瀬が唇を噛んだ。
当たり前のことが信じられないならにいの気持ち気付くわけ無いか。
「遠慮してたけど、やめた」
もう、いいか。
傍観者を気取るのも難しくなってきた。
「俺が事前の約束もなしに、なんで取引先に成瀬を一緒に連れて行くか考えたことある?」
成瀬は本当に気付いていないようだった。
「成瀬がにいと話してるのを見たくなかったからだよ」
そんな俺をにいが更に牽制するようになった。
いつものごとく取引先に成瀬を同行してもらおうとすると、
「明日までの仕事あるみたいよ。暇じゃないのよ、こいつだって」
わかりやすくバリケードをはりにきた。
「あんまり俺のかわいい後輩をいじめないでね、にい」
自分のテリトリーを守るくらい、わけない。
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