嘘のつくりかた
07.行方不明の動点P
外へ出ると空は暗かった。そういえば今朝、ニュースで天気予報士が傘を持って行けって言ってたな。あ、ベランダにタオル干したままだ。また洗濯し直しか。面倒くさいな。
どうでもいいことが次々と頭を過る。
「成瀬?」
聞き覚えのある声。
ゆっくり振り返るとそこに立っていたのは。
「さえき、さん」
いつの間にか小雨が降っていた。
彼の差している傘は雨が降り始めてから慌てて購入したものなのだろう。傘の大きさが彼の肩幅には合っておらず、スーツの肩の色が少し濃くなっていた。
「それ、サイズ合ってないですよ佐伯さん。肩濡れちゃってるじゃないですか」
「一番大きいサイズがこれしかなかったから。それより成瀬、傘ないの? 今帰り?」
つうっと何かが左頬をつたった。
しっとりと顔を濡らすくらいの雨が降リ続けている。佐伯さんにバレずにすむだろう。
「ちょっ、濡れてんじゃん。今更かも知れないけどほら、入って」
飾り気のない優しさにいっそう涙が出てくる。慌てて下を向いた。
「いいです、佐伯さんが濡れちゃいます。私家近いんで大丈夫です」
私へ傘を差し出している彼の腕を軽く押し出した。
「先輩の言うことは黙って聞きなさい」
静かに、優しく諭されてそれ以上抵抗できなくなり、黙って傘の中に入った。
ただでさえ足りていない濡れない領域は更に減って、佐伯さんのスーツの肩の色は更に濃くなった。
「とりあえず、会社戻ろう。一番近いし」
そう言って私の腕を引く佐伯さんに私は再度抵抗した。
あれからどれくらい時間が経っているのかわからなかったが、もしかしたらまだ新倉がいるかもしれない。雨に濡れて風邪を引くことになろうが、戻りたくなかった。
「この時間なら誰もいないよ。就業時間とっくに過ぎてる」
佐伯さんはそう言って私の腕を引っ張った。
会社の中にはまだ残っている社員がいた。自分のオフィスにも誰か残っているだろうかと恐る恐る覗くと、もう誰も残っていないようで私は胸を撫で下ろす。佐伯さんに大丈夫だと言われても自分で確認するまでは安心できなかった。
「はい、一時凌ぎだけどこれで体拭いて。でこれ飲んで」
手にはホカホカと湯気の立ち上るコーヒー。頭にはまっさらの白いハンドタオル。
どちらもオフィスに着くなり佐伯さんが用意してくれたものだ。
「すみません……でもタオルの場所よく知ってましたね?」
「前に女子社員に教えてもらった」
もう当然の情景に言葉にするのも変な感じがして、口を「へー」の形にしたまま顎を少し上げた。
「今日みたいに雨に振られた時にすぐにタオル出してくれてさ。それでなんでかなって聞いただけだから」
すぐに反論する佐伯さんに思わず笑った。
「そんなに思い切り言い訳しなくてもいいじゃないですか」
「いや、成瀬今絶対、俺のこと軽いヤツだと思ったでしょ」
「さすがだなぁと感心してました」
「変わんねーじゃん!」
ひとしきり笑って落ち着くと再び静寂が訪れる。
私達以外気配のない夜のオフィス。普段は滅多に座ることのない来客用のふんわりしたソファーに佐伯さんと向かい合せで座っているのが不思議で、なんだか現実のように思えなかった。
急にふわふわと軽い目眩《めまい》が起きた。まだ温もりの残るマグカップで手を温めながら目眩が治まるまで目をつぶった。
「言いたくないならいいんだけどさ、さっき泣いてたよね? 何かあった?」
佐伯さんの口調は問い詰めるものではなく、優しく確かめるものだった。
彼に隠し事ができないことを今更思い出し、こんな状況で嘘をつけるわけもなく。ただ一度こくんと首を下へ向ける。
「にい?」
囁くような声でもう一度念押しをされて下へ向けたままの首で軽く頷く。
「そっかぁ……」
佐伯さんがそのまま天井を仰いだ。いつものように矢継ぎ早に質問が飛んで来ることもなく、ただ静かに時間が過ぎる。
カチカチカチ……時計の針が動く音が響く。
それと共にたまに佐伯さんの唸り声が聞こえてくる。
「あの……」
さっきから何度か話し掛けてみているのだが反応がない。
いつの間にか佐伯さんの唸り声は消え、時計の音だけが響いている。
「佐伯さん?」
何度目かの呼び掛けで佐伯さんが反応した。
「ぅおっ」
「わぁっ」
驚くほどの声を上げたつもりはなかったので不意をつかれた。
「え、あ、ごめん」
私に気付いた佐伯さんが申し訳無さそうにこちらを見る。
「あの」
「うん?」
「佐伯さんと新倉っていつからの付き合いなんですか?」
佐伯さんは少し不思議そうな顔をしたけれど、すぐに何かを察して話してくれた。
- Copyright (c) 2016 Natural thang/Hinaki All Rights Reserved.