Kissからはじまる。
So Please



 それは、いつもと変わらない日だったように思う。いつもと同じように朝起きて、いつもと同じように準備をし、電車に乗り、学校へ行って、ホームルームを何となく聞き流して。一限は移動教室だったのでいつもと変わらない顔ぶれと一緒に、特別教室の集まる西棟へ移動。
 そんなことを繰り返して昼休みになって、いつもと同じように今日も終わるのだと思っていた。そう思って疑わなかった。
 高校三年生。マンガやドラマのような生活を期待するには、あたしたちはもう大人に近づいていたし。
 何もない繰り返しに満足できるほどには、コドモから抜け出せてもいなかった。
 つまり、そこそこ現状維持に努めていて、そこそこ現状に飽きていた、のだ。受験は多少の焦りをかき立てる程度には目前に迫っていて、それ以上に数日後の体育祭のほうが気になって仕方がない。
 そんな、代わり映えのしない毎日だった。その日も。

「ヒマでしょ。手伝ってよ」
 どさり、抱えていた紙の束を机に下ろす。重たい音を立てた紙束は、抗議するように上の何枚かをふわりと踊らせて大人しくなった。
 色素の薄い茶色の髪の向こう、ガラス越しに瞬いた目が私を見上げる。銀の細いフレームなんてキザな眼鏡をしているくせに、驚くほど冷たくも嫌味もない印象を人に与える顔立ち。要約すると、標準以上にカッコイイ。
 その顔に向かって首をかしげて見せる。片手は腰に、片手は紙束を叩いてぽんぽんと音を立てる。王子様めいた綺麗な顔がつかの間、呆れを含んで柔らかに見返してきた。
「美里」
「なに? ヒマでしょ?」
「僕が言いたいのはそうではなくてね」
 穏やかな声があたしを呼び、続けてたしなめる言葉に肩をすくめる。そんなことは聞いていない。あたしが欲しいのはそんな言葉ではない。
「はい、半分に折ってこれで止めて」
「……いいけど」
 押し付けたホチキスを受け取り、和泉は言いかけたはずの言葉を飲み込んで小さくため息をこぼした。席が前後なのをいいことに、自分の椅子を和泉の席の横へ回し、前にある机を引っ張ってくっつける。
 二人分の机を使い、書類を半分に折ってはホチキスで止めることを繰り返す。出来上がる前の束は和泉の机に。出来上がった束はあたしの机に。
「体育祭の、しおり」
「そ。クラスに配る分は係が作れって、面倒なのよね。自分の分は自分でやればいいのに」
 ひらりと、和泉の手が無造作につまみあげた一枚を目の前にかざした。タイムスケジュールやら演目やら、注意事項やら。こまごまと書かれたそれを、つまらない雑談をしながら片付けていく。半分以上は、あたしがしゃべって和泉が相槌を打っている。
 ときどき思う。物静かな優等生タイプの和泉は、あたしを相手にしていてうるさくないのだろうか。黙々としおりを折り続ける手のひらを何気なく眺め、そんなことを考えた。
 節のある長い指と、硬そうなてのひら。こんなに綺麗な見た目をしているのに、和泉はやっぱり男のコなんだった。少し幼いくらいの童顔なのに、綺麗な顔。声を荒げたりしないような、品のいい性格。運動より読書が似合う、頭のよさ。そのくせ運動神経だってそんなに悪くはない。目立ってよくもないけれど。
「ふぎゃっ?」
 突然、ツインテールにくくっている髪が引っ張られた。髪の先を握っているのは和泉の手のひら。さっきまで眺めていたそれが暴挙に出た理由が解らなくて、ただあっけにとられて口を開閉させた。
「な、なな……」
「ぼんやりするか作業するか、どっちかにしたら?」
「なにが! なんで!」
「解りやすいね。美里は」
「あんたは解りにくいの!」
 うろたえたままに怒鳴りつければ、肩をすくめて髪が放された。自由になった和泉の指が、あたしの目の前にあるものを指差す。
 半ば無意識で折っていたしおりは、半分とは言いがたかった。やり直しだ。
「余分、あるの?」
「……あるわよ。そんくらい」
「ならいいけど」
 さっきまで髪を引っ張っていた手のひらが、一転してなだめるようにあたしの頭を軽く叩いた。どういうわけなのか自分でも解らないけれど、和泉にこうされると反抗しにくい。ノドまで出かかった文句を飲み込んで顔を背けた。
 昼休みの教室。その、ほぼど真ん中に位置する、あたしと和泉の前後に並んだ席。ぼんやりと和泉から背けた顔で黒板を眺めた。日直が手を抜いたのか、荒く文字の跡が残っている。
次の時間はなんだったっけ。壁に張られた時間割に目を移して、あいまいに曜日と時間を追った。今日はとても、いい天気。
「美里」
「……ん」
 不意に呼ばれ、意識を戻した。教室の喧騒が戻ってきたのに、その音はどこか遠い。
「委員会、しばらくあるんだろう?」
「当たり前でしょ。もうすぐだもの」
 体育祭実行委員会。あとちょっとでお役ゴメンになるあたしたちは、今が一番、忙しい。和泉の所属している生徒会だって忙しいはずだけれど、表立って動くわけではないからあたしたちほどではないのかもしれない。
 何でもかんでもケンカ腰になる自分の口調にため息をかみ殺して、いつもどおり、投げやりに答えた。
 申し訳なく思わない、ワケではない。あたしだって何でこんな言い方になるのか解らなくて困っているのだ。誰にでもケンカを売ってすごしているわけじゃない。
 話してて苛々するとか、そういうことでもない。なんでだろうと、頬杖をついて和泉を眺めながら考えた。和泉と話すときばっかりだ。いちいち噛み付くような口調になるのも。それを思い出してため息が出るのも。
 なんなんだろう。むしろとても話しやすい部類に入るのに。
「なに?」
「え? あ」
 淡々と作業を続けていた和泉が手を止めて、薄い唇が動いた。我に返って目を逸らす。
 今、なに考えてドコ見てた? あたし。
「人を見てても作業は終わらないよ」
「見てない」
「……そ」
「なによ」
 にらんだら無言で首を振られた。再び、出かけたため息を押し殺す。
 自分の思考をごまかすように、新しい紙をひったくって折り目をつける。きっちり半分にして、満足した瞬間。
何の脈絡もなくよぎったのは、さっきまで見つめていた光景。和泉の温和な性格を現すように、緩く笑みをたたえた口元を思い出してしまって。
訳も解らず顔が熱いことに気づき、思わず手で頬を押さえた。
「何してるの」
「別にっ」
 自分がどうして動揺しているのか、全く解らなかった。解らないくせに動揺していることだけは嫌になるくらい理解できる。
 なんなの。なんなのこれ。
「どうして怒るかなぁ」
「怒ってないわよ!」
 ため息混じりの和泉の声に、とっさに反応したあたしの声は明らかに八つ当たりだった。
「……あのさ、美里」
「なに!」
 どうにもならなくなって、もう嫌われる前に話すのをやめたほうがいいのかもしれないとか、そんな解決策しか浮かばなかったあたしに。
 和泉は普段とまるで変わらない口調で、それを尋ねた。
「もしかして嫌い? 俺のこと」
「そ……っ」
 あたしが続けようとしたセリフは、そんなことない、だったのか。
 それとも、その通りだ、だったのか。
 自分のことのクセに解らず、何も続けられず絶句したあたしを、和泉は黙って見つめていた。静かな目と、少し困ったように笑んだ口元で。
「委員会が終わってさ」
 どれだけ時間がたってからだったのか、解らないけれど。
 音もなく視線を外した和泉は、自分の手元を見つめて折りかけだった紙に綺麗な線をつけた。いつの間にか最後の一枚。けっこうな量だった紙束は、和泉がほとんど片付けていた。
「もし、まだ八時前のときがあったら」
 仕上げた束の一番上へ、和泉は今折ったばかりのそれを乗せる。ためらうように指先が紙をぱらぱらとめくった。
 和泉の視線が、すいと動いた。つられてそれを追いかける。向けられた先は窓の外。校庭越しにうっすらと見える、海岸線。
 海が近いこの学校の生徒はみな、歩いて行ける距離の海岸に慣れ親しんでいる。授業をサボって羽を伸ばすには、広い海岸は絶好の場所だった。
 先生たちにとってもお気に入りの場所らしく、見つけられる確率も高いのは仕方がない。
 和泉の言葉は続く。視線はもう、あたしを見ない。
「……海岸で」
 海岸で。そのあとに続く音はなかった。椅子から立ち上がり、教室を出ていく和泉の後姿を見送ったあたしは。
 意味をとらえかねた優しい声を、ずっと頭の中でリピートさせていた。

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