逆転トリロジー



 友人のサヤから聞いていたから大概のことは知っていた。

「ジュディマリが好き」なのだとか「甘いものが好き」なのだとか「彼には兄がいる」だとか。
 一度学校帰りに連れて行かれた為、どこに住んでいるかも知っている。(もちろん、家の前まで来ただけ)
 会ったこともない人間の話を聞くのは、テレビの中のアイドルを観るのと同じくらい遠い世界の出来事だ。

 私が彼に抱いていた興味は名前にだけ。
“カンザキ サイト”
 変わった音を持つこの名前は至って日本人のようには聞こえない。

 何を考えているかわからないポーカーフェイス。少し口の端を上げる、何か含みのある微笑。それは影の悪役のように見える。
 クラスが同じなったところで抱いた印象はこんなものだ。
 彼と同じクラスになったのだから、と彼女直属の諜報部員を仰せつかった。その傍迷惑なお役目のお陰で神崎を眺める機会が増えたのだが、私の頭の中には毎日疑問符が舞っている。

 神崎は普段、眼鏡を掛けている。けれども、忘れて学校へ来ることがある。それが頻繁にある為、「なくても見えんの?」と聞くと「見えへん」と一言。細かい板書の時は前の席に座っている私の背中をシャーペンの頭で突付く。「なぁ、あれなんて書いてあんの?」
 かと思えば、ノートを取るだけ取って後は熟睡。寝息以外はカシャカシャという音が聞こえてくる。たぶん、ペン回しだ。
 前に、班ごとで机を合わせてレポートを書こうというときに、神崎がずっとやっていた。人の話を聞いているのかわからないその態度に初めはイラついたが、並みではないペンさばきに少し見とれた。
 指と指の間に小指と薬指の間に挟んだペンを親指で弾いて薬指と中指の間で受ける。それを繰り返して一番下の小指と薬指の間から人差し指と親指の間まで持っていくと、今度はそれを逆にして下まで持っていく。それを延々とやっていた。
 試しに自分でもやってみたのだが、シャーペンは何度も教室の床に落ちるばかりで手の中へ収まってはくれない。あの領域へ達するには相当の時間やっていたに違いない。
 ということは授業中はほとんどそれをやっていたのだと思う。しかし、昼休みに次の授業の課題を解いていると

「そこ、間違ってんで」

 通り過ぎざまにそう指摘してくるのも神崎。
 大雑把なのか、単に要領がいいのか。サヤの言う、奴のいいところってどこだ?

*


「……全域暴風警報発令中」
 起きた頃には外で風がいろんなものを吹き散らしていた。7時過ぎでこれなら今日は休校か。

「おはよー。今日学校休みやって。ラッキー!」

 浮かれた緊急連絡網が回ってきた。

「あんたは小学生か(笑)」
「でも、警報出てるのに学校行ったアホがいるみたいやで。“神崎才人”」

 やっぱりあいつ、掴めない。

 雨が小降りになってきた。今の内にノート買ってこよ。
台風で学校が休みになったのはいいのだが、ずっと家に閉じ込められるのも気が滅入る。自分に適当な理由をつけ、外へ出る。

 コンビニで買い物を済ませ、外へ出ると雨が降っていた。仕方なく、もう一度レジへ戻り傘を買って外へ出る。

「自転車こいで海を見に行く~♪」

 うんざりするような土砂降りの中を能天気な歌が前から歩いてくる、男のジュディマリ。

「何や、ちっさいのが歩いてくんなーと思ったら佐倉サンか」
「ちっさいのは余計や。そっちこそ制服やん」
「学校行ったんやけど、休みやったから散歩」

 散歩……

「電話かかって来んかった?朝、連絡網。っていうかテレビ見たら学校ないってわかるやん」
 今は10時過ぎ。
 あれからずっとこの天気の中を散歩していたというのだろうか。

「朝からずっと本読んでてテレビ見てへんな~。電話かかってきたっけな…
 で、佐倉さんは何してんの?」

 この傍若無人さ。
 サヤに言わせると、そこがかっこいいらしい。まぁ、確かに顔は整っているし、背も高い。女の子たちの話の中に彼の名前の出番が多いのもわかる。

「制服びしょびしょやん。早よ帰って乾かさんと風邪引くで」

 出された質問に答えず、それだけ言ってその場を早足で立ち去った。

「あ、そこ」
「え?」

 答えるが早いか、次の瞬間に私は水溜りの中に尻餅をついていた。もうやだ。

「そこ滑んでって言おうと思ったんやけど。マンホールの上、雨で滑りやすいし」

 盛大に笑われている。

「大丈夫?」

 とても自然に手が差し出される。驚いた。
 言葉は素っ気無いのに目の前にある手は優しい。

「ありがと」

 早くなった鼓動を気取られないようにその手を取る。返した言葉が少し震える。
 不本意ながらも彼の力を借りて立ち上がり、顔を上げるとそこにはあの含み笑い。早くこの場を立ち去りたい。

「これだから雨の日は嫌い」
「そう? 俺はけっこう好きやけど。特にこんな日はなー」

 雨はまだ降っているというのに日が差してきた。

「狐の嫁入りや」
「懐かしいな、その言い方」


 この雨の中、体のもう半分が濡れるのも時間の問題だ。ゾクっと寒気がする。
 バサッと何かを肩に掛けられた。

「家まで送るし、それまでそれ、羽織っとき」

掛けられたブレザーは私には大き過ぎてコートのようだ。

「今日朝読んでた本『5月35日』って言うんやけど、それ読んでたら外出てみたくなってん。何が起きてもおかしくない日やん、今日って」
「そりゃ、台風来てるし」
「佐倉サンが思いっきりこけた瞬間見られたしな」

 さっきの一連の流れを脳内リプレイしたのかまた笑い出す。

「そんな日に家でボーっとしてるんもったいない気がせん?」

 あの優しい手の使い方を知っているのに、子どもっぽいところもある。女の子たちが惹かれるのはこんなところだろうか。

「それにしてもホンマにちっちゃいよなー。俺の肩よりも下やん」
「それしか言うことないん?」
「ちっちゃくてかわいいよな」
「え?」

 目の前が真っ暗になる。比喩ではなくて、本当に。

*

「そういや、私あなたのこと嫌いやってん」

 衝撃的な口付けの後に告げる言葉ではない。わかっているが、言わずにはいられない。まだまだまだまだ。

「何考えているかわからん顔やし、嫌な笑い方するし、男のクセにジュディマリ原曲で歌えるし、しかもけっこううまいし、それなのに何でやねん!」
「怒ってんの?褒めてんの?けなしてんの?」

 半分ほど身を屈めて私の顔を覗いた。この野郎。

「それが逆転したん?“嫌いやった”んやろ?」

 口元ニヤリ。
 やっぱり嫌いだ、こいつ。

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1995年 自転車 JUDY AND MARY