ガキじゃあるまいし何ですか、コレ。




「おはよーございます、日下くさか先生」

 と、同時に入り口の方で何か音がした。
 大量のノートが落ちた音も気にせず、その部屋の主はパソコンに向かったまま入り口を見ようともしない。
 助けが来ないのがわかると女生徒はノートを拾い始めた。たまにその教師の方へ視線をやるのだが彼が彼女を気にする様子はない。

「何してるんですか、先生」
「仕事です」

 即答。
 いつものことなので気にせず会話を続行する。

「今日の授業はどこやるんですか」
「平安時代です」
「清少納言が書いた源氏物語の世界ですか。ロマンチックですよね〜」
「紫式部です」

 このやり取りの間も日下は画面から一度も目を離していない。
 それでもくじけず、麻琴は日下の机へと近付く。後一歩で近付くという、その拍子、コードに引っかかりつんのめる。
 プツン。
 日下のパソコンの電源が落ちる。
 ギギギギ。
 ゆっくりと椅子が回り、日下が今日初めて麻琴の方へ向く。

「櫻井さん、僕は何をしているって言いましたっけね?」
「仕事です」

 事態がヤバイ方向に急降下していっているのはわかっていたが、自分の方を向いてくれたことに喜んでいる自分もいる。にやける顔を抑えながら体勢を整えながら日下に聞く。

「コンセント抜けてもパソコンのバッテリーあるからだいじょー」
「生憎、バッテリーの調子が悪くてコンセントを差していないと電源がつかないんです」

 麻琴の言い分を途中で遮り日下が事態の深刻さを淡々と告げる。"大丈夫"だと言おうと覗き込んだパソコンの画面は真っ暗。
 日下が深い溜息をつく。慌てて頭を下げる麻琴。

「すみません! あっ、でもパソコン内にバックアップ残ってるかも!」
「まぁ、データは保存していたので何とか」

 また少し息を吐いて日下の視線はまたパソコンに戻される。

「それよりそれ、片付けて下さいね?」

 社会化準備室の床には部屋の隅に積んでいた資料とさっき麻琴が拾ったノートが散らばっている。

*


 麻琴に消されたデータの修復は授業の空き時間にすぐ終わった。下校時間も過ぎ、廊下を歩く自分自身の影もずいぶん長い。

「今日は早く帰って野球見ているはずだったのに」

 2年生の教室が並ぶ廊下を歩きながら閉め忘れたドアや窓や残っている生徒がいないかのチェックをしつつ日下が愚痴る。
 2階に上がると、教室に人影を見つけた。

「早く帰りなさい。学校閉まりますよ」
「えっうそっ! もうそんな時間!?」

 彼女を見掛けて溜息を付かない日があっただろうか。

「櫻井さん、何してるんですか」
「先生に会えて嬉しいけど、嬉しくない〜」

 麻琴が今にも泣きそうな声を出す。

「早く帰る用意して下さい。日が沈みかけてますよ。あなたが帰らないと僕が帰れません」
「先生私のこと心配?」

 "僕が"の部分を強調したのだが聞いていない。日下の最初の注意に振り返っただけで後はずっと机に向かって唸っている。

「つくづく、僕の望むことをしてくれない生徒だ」

 そう言って麻琴の机に歩いていく。机の上には半分も解き終わっていない数学の問題用紙が並べられている。

「……いつからやってます?」
「6時間目から」

 成績が悪いわけではないが、数学だけが苦手でそれに業を煮やした数学教師が麻琴に出した課題。麻琴の前の席の椅子を引いて日下が座る。

「え?」

 追い出されるか放って帰られると思っていた為、少し驚く。

「ボーっとしていないで解いてください。学校に泊り込むつもりですか」

 先生と一緒ならそれでも構わない。その考えを見透かされたのか参考書で軽くこずかれる。

「ここは2ではなく5を代入するんです」

 いつまで経っても終わらないわけだ。

「先生、社会なのに数学わかるんだ」

 日下の監督の下、問題を解き始めて小1時間。余裕が出てきた麻琴が口を開く。

「高校生程度の問題なら解けますよ」

 いつもの冷たい物言いも今は大丈夫。

「先生、下の名前何て言うんでしたっけ」
「毎日、準備室に通ってくる割に知らないとは」
「いいから、何て言うの」
「カズヤ。平和の和に也で和也」

 答えない限りは問題を解いてくれそうにないのでしぶしぶ答える。結局、3分の2は日下が解いている気がする。

「和也って高校生みたいな名前」
「僕にだって当然そんな時期はありましたからね」

 ちょっと皮肉を言えばそれ以上の皮肉で返される。それでも言い方はいつもより柔らかい気がした。

「先生、ありがとうございました」
「ほとんど僕が解いたようなものですからね」

 時刻は19時過ぎ。今から帰ればゲームの半分からは見られるだろう。

「帰りますよ、櫻井さん」

 いつの間にか教室を出ている日下。慌てて机の上に広げていたものを鞄に詰め込んでその後を追いかけていく。余りにも急いだものだから教壇につまづいた。
 咄嗟とっさに目の前にあったものをつかんで。

「……ったー……」
「お約束な人ですね。何やってるんですか」

 シャツの裾を掴まれた日下はそのまま後ろに倒れ、尻餅をついた。

「すみません」

 顔を上げた先には既に立っている日下。夕日が逆光になって顔はよく見えない。

「先生、好きです」

 突然そんな言葉が口をついて出た。自分でもびっくりして思わず両手で口を押さえる。

「少なくとも僕の理想は髪振り乱してスカートがめくれた状態で言われることじゃないですよ」

*


 たかが一生徒としてしか見られていないのはわかっている。迷惑そうにしていることも。だから、あの言葉を決定打だとは思っていない。
 世界史の時間、いつもなら板書する日下を見ているのだがそれさえも忘れ昨日のことを思い返していた。
 良く晴れた雲一つない空。そんな天気に似合わない顔をした女子生徒が今日も放課後の社会科準備室の前に立っていた。

「先生」
「今度は櫻井さんでしたか」

 奇妙な返答。いつもと違う反応だと思いつつもひねくれたことをいってみる。

「私が来ること待ってたなんて言われたの初めて」
「事実を曲げないでください」

 日下の机の上にはいくつものプレゼントらしきかわいらしい包みがおいてある。

「HAPPY BIRTHDAY、和也くん」

 ドキドキしているのを悟られないように調子に乗って下の名前を呼んでみたが逆効果だった。派手な包みを日下の手に乗せる。

「ガキじゃあるまいし、何ですか、コレ」
「お弁当とストラップ」

 日下が深くゆっくりと息を吐く。いつもと何か様子が違うのは麻琴にもわかる。

「正直、僕は迷惑しているんですよ、悪い意味で。何もしていないのに好きだと言われても何の感情も湧きません。僕に何を期待しているんですか?」

 そう言いながら麻琴へ近付く。いつになく冷たい目に怖くなって麻琴は後ろへ下がる。

「いたっ」

 下がり過ぎて麻琴が壁に背中をぶつけた。

「何も求めてません。私がしたいようにしてるだけです」
「あなたたちにとって自分の言うことを聞いてくれる一番身近で都合のいい存在ですよね、僕たちは」

 真っ直ぐ自分を見つめる日下の目。瞳の奥は笑っていない。しばらく麻琴を見つめたまま動かなかったが壁に手を付きゆっくりと近付いた。
 日下の顔が目の前に来た時、麻琴はぎゅっと目をつぶった。
 日下はそのまま顔を通り過ぎ、耳元で囁いた。その言葉が終わるか終わらない内に麻琴は準備室を飛び出していた。

「やっぱりあなたも他の人と同じなんですね」

 日下が麻琴がいた空間へと言葉を置いた。

*


 あの日から麻琴が社会科準備室の戸を開けることはなく、日下の仕事はいつになく捗った。毎朝の時間のロスがなくなった分、ボーっとする時間も増えた。
 キーボードを打つ手が度々止まる。静かな朝はしばらく続いた。

 放課後。授業の準備が一段落し、読みかけの時代小説を手にしたとき。準備室の扉を叩く音がした。

「空いてますよ」

 視線を落としたまま日下が答える。

「失礼します」
「いつになく殊勝しゅしょうな挨拶ですね」

 麻琴は準備室の戸を静かに閉め、入り口に立ったまま。

「しばらく大人しくしていたと思ったら次は放課後ですか?」

 麻琴は下を向いたまま動かない。日下もしゃべらない。
 本のページをめくる音だけが響いている。
 ふと、気配が動いた。それはいつの間にか近くに来て、麻琴の額に近付いた。

「だからガキだって言うんですよ」

 背中を向けている麻琴の腕を自分へ引き寄せる。
 長い沈黙。

「先生、苦しい」

 どこで息をしていいかわからなくてずっと息を止めていた。

「さっき、迂闊うかつにもあなただと思って話し掛けてしまいました。こんなことをするつもりはなかったんですけどね。いつもと違うことをされると困るんですよ」

 彼女と間違えて話し掛けられた生徒は変に思っただろう。かすかに甘い匂いのする麻琴を抱えながらそんなことを考える。

「高校生には高校生のやり方があるの」

 さっき日下の取った行動の説明のないまま、体を遠ざけられた後。この間のバースデイプレゼントの話になった。
 またすぐにパソコンへ向かうと思っていたのに、自分を見て自分と話してくれているのがとにかく嬉しくてまたにやけそうになる。

「確かに櫻井さんらしいですね、箸が入っていないところが特に」
「あ」

 麻琴は持ってきた包みを開ける。

「僕の想像の域を超える行動を傍で見ているのも楽しいと思ったんですよ」
「何か告白されてるのかけなされてるのかわかんない」
「両方です」

 サラッとつむがれた言葉は自分を受け入れてくれたという証拠。

「どっちが想像超えるのよ」
「あなたの考えている僕を壊すのもおもしろいですからね。お互い楽しみが増えていいでしょう?」

 楽しんでいるのは先生だけで自分は驚かれされることの方が多いだろうと思ったが、彼の鞄に自分の携帯に付けたお揃いのストラップを見つけると宣戦布告をした。

「先生の思う通りにはいかないんだから!」


お題元 Traum der Liebe 『不器用に恋しましょう10題』